「紫の君」と「錦冠の君」の時代は大転換激動の時代〜巫女舞と不思議な鈴③

八瀬の瑠璃光院にて

しほりです♪

「紫の君」「錦冠の君」から続きます。

「紫の君と巫女鈴」→こちら

「錦冠の君と翡翠の勾玉」→こちら

「錦冠の君」が時代を教えてくれました。その後出てらした「紫の君」も遠い時代の人ではなさそうですから、

仮に小野氏の人と思って考えてみると、

紫を着る=聖徳太子の冠位十二階以降で、紫の冠位に相当する人となるとあの方…

遣隋使としての功績が認められて「大徳」となった「小野妹子」

「紫」という色も、元々は、海の人フェニキア人の高貴な人たちだけが、ものすごく希少な貝から採れる染料を使っていたということから、最高位の色となったそうです。

遣隋使として、帰ってからももう一度隋まで行っている妹子は、海の旅のエキスパートだったと考えられますから、海の色としての紫もある気がします。

「錦冠の君」は、妹子の子又は孫ではないかな。でも若い姿ということで、若くして亡くなっている可能性も高い。

小野妹子の子は、「小野毛人」

この方は墓誌が有名で国宝になっています。

亡くなった年と冠位だけが「毛人の子、小野毛野」が亡くなった時に記録に出てくるだけ。

それも墓誌より冠位を低く書かれています。

毛野が亡くなったのは、古事記が書かれたと言われている年(成立が後の時代説もあり)と、日本書紀の成立の間で、これも微妙なタイミングですね。

毛人の方はいっさい公の記録が無いのです。毛人の父妹子も臣下として最高位の大徳までなっていても、生年や没年の記録無しです。

さて、「小野毛人」の墓誌の出た古墳がどこにあるかというと、京都の八瀬です。

ブログ読んでくださっている方は思い出していただけるかもですが、

私が大好きで何度も行っています「瑠璃光院」があるのが八瀬。

そして、ここも好きな大原の三千院。八瀬の奥になります。

ここの「瑠璃光のお守り」の記事→こちら

をかなり前に書いて、けっこうそれを見てくださる方もいらっしゃる場所なんですよね。

三千院のあたりの地名が小野山として今も残っていて、八瀬や大原は小野氏の領地だったことがわかったのです。

「錦冠の君」は、時代的に

毛人の子、妹子の孫。

若くして亡くなっているなら、記録の残っている毛野ではありませんね。

あくまで私の夢からのお話なので、なにも確実なことなどありませんが、

妹子と妹子の孫の時代。とてもスペクタクルな激動の時。登場人物もすごいことになって面白いのです♪

仏教入ってくる、蘇我氏対物部氏、遣隋使「日出処の天子」、太子一族の最期、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱…

聖徳太子、中大兄皇子、大海人皇子、藤原鎌足、藤原不比等、役行者…

大きな出来事、そして役者揃いですよね。

そうそう万葉集にしか出てこない額田王とかも。

中大兄皇子=天智天皇、大海人皇子=天武天皇。二人は本当に兄弟だったのか?

海人族で採鉄氏族であった小野族は、上古の時代からの祭祀氏族でもあり、

一方で遣隋使として、仏教や景教など中国からの最新のもの入ってきてたはず。

伊勢神宮の天照大御神も天武天皇からですし、宗教的にも大変な変わり目ですよね。

そんな時代、小野氏の方々はどんなことを知っていたのか、教えてほしいものだわ~

なんて思ってたら、すっかり古代史というか超古代史まで、なぜかいろいろ調べたり、学んだりするはめに。

思うことは叶うってことか、知りたいが叶っていっているのかもしれません。

瑠璃光院、比叡山からの水が湧き出る

今日も読んでいただき、ありがとうございました☆

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