しほりです♪
「紫の君」から続きます。
「錦の冠を被った人が、そばにいるよ。」ある日、ヒーラーの友人からいきなり言われまして…
錦の冠?聞いたことないなぁと思っていたのですが、日本の古い時代の人だとのこと。
その直後に会った普段あまりそういう話しない友人に何気に話したら、
「錦の冠、こういうのだよね。」とその方が見えてるそうで。びっくり!
お二人とも日本史のこと知らないけどと仰る。
私も知らないので、まさか?と思って調べてみたら、確かに錦の冠を被る冠位の人がいた時代があったんですよ。
なんと!こういう衣装と言われたのも、冠と同じ冠位なので、「この時代」というピンポイントではないですか~
これは、あまりにびっくり過ぎ!
でもそういう姿で現れたということは、「その時代を調べなさい」ということなのかな?
何かを知らせに来られたのかな~
ああ!それにしてもその時代って、「日本史上でもかなりの面倒くさい時代」って私が思っているところだった。
そこか~(>_<)
そんな風に思っていたある日、またはっきりとした夢を見ました。
翡翠の首飾りがドーンと出てきたんですよね。
大きくて美しい薄緑の翡翠の勾玉が真ん中に一つ。それ以外は水晶かな、少し茶がかかったすりガラスみたいな白色の管玉が繋がります。すごくリアルでした。
「翡翠か~、もしかしたらあの方がつけていたものなのかしら?」
などと思ってましたら、
今度は私の好きなアクセサリー作家さんが、翡翠の指輪を出されて。それも透き通った翡翠という珍しいものです。
これは!と思って発売日の一番に並んでゲットいたしましたよ☆
翡翠は白っぽいのですが、光の反射が緑っぽくて、翡翠なんだなと思えます。
それからまた少し後の旅でのことです。
ある神社の社務所に「糸魚川翡翠の勾玉」が売っていると、なんとその日に初対面の人からのお勧めで、
その上、勾玉の数が、その時のメンバー分だけあったもので、みんなで買おうということになっていきまして。
私はお金を取りに行っていたので、最後の一つ、白くて大きい勾玉が回ってきました。(値段もみんな同じだった~)
実はその勾玉が私には必要だったらしいのです。
そのあと私は別行動で山へ行ったのですが、行ってみると歴史上かなり悲しいことのあった場所を通ることになってしまいました。
なんとなく、「これはやばい」という気がしまして、「あ!ポケットにあの時の勾玉入れてたよ。」と同時に思いだしました。
なぜかわからないのですが、出したら両手に挟んで自然と手が動きだし、
そこの場所を通り抜けるまで、ずっと手を振り続けました。
そこは南北朝時代の後醍醐天皇にかかわる場所だったと立て札に書いてありまして。
日本史で受験してないため、「南北朝時代ってあったな。」くらいしか知らなかったし、関心もなかったのに、なぜか行く先々に南朝繋がりも多いのです。
小野氏が南朝方についていたということが関係あるかもしれません。
珠を振ることも鎮魂の意味もあったのか…
さらにその勾玉が守ってくれた感じもありましたから、どちらの意味でもそのタイミングで、私のところに来てくれたのかもしれませんね。
今は、糸魚川の翡翠も知っている人が増えましたが、翡翠は最近まですっかり忘れられた存在でした。
いえ、忘れられたの前に、使わなくされてしまったという歴史があります。
私と娘は、東大寺法華堂の「不空羂索観音」が好きで、よく行っていまして。御前に座って休憩しながら、ゆっくり眺めさせてもらっていますが、
とてもおしゃれな観音様で、その冠も「世界三大宝冠」の一つと言われているそうなのです。
実はその宝冠こそ、最後の翡翠たちが集められたものだったと知った時、本当にびっくりしました。
明治時代に冠は一度盗まれてしまい、帰ってきたものの、全部が元のものではないそうですが、
二万個も石が付いていて、翡翠の勾玉もたくさんあったそうです。
この不空羂索観音以降、いっさい翡翠は出てこなくなり、忘れられていきます。
銅鐸もそうですが、祭祀形態が代わり、前の祭祀で力を持っていたものは、供出され、集められ、さらに祟られないように、埋められたりしますよね。は勾玉は仏様の飾りとなったのでしょうか?
法華堂は大仏殿より古く、二月堂も含めこのあたりは東大寺の一番古い部分。
二月堂のお水取りや、伝説にもなにか隠されたような不思議なことがあります。
ここの場所は、これからも出てくることになるのですが、時代としては、大仏が作られる以前の奈良時代。桓武天皇の頃まで、翡翠の勾玉は残っていたとも言えます。
そうなると、「錦冠の君」の時代はまだまだ翡翠の勾玉も使われていたということになります。
不空羂索観音の冠の中に、かの君の翡翠も入っていた⁉︎可能性もあるわけで、何度も行く場所が、自分にとっての何かの繋がりの場所と後から知ることも多いのです。
続きます〜