「小野照崎神社〜上野台地の昔(後)」平安期に海進があったり、前方後円墳が今も!そして、鎌倉の由来にも…

別府湾の夜明け。当時の照崎からもこんな風景が見られたのでしょうか♪

智野しほりです♪

前半「小野照崎神社、御祭神は小野篁と菅原道真!」→こちら

小野照崎神社は、鶯谷駅を降りると、高台の方から、入谷の方にずっと降りて行くのですが、

本来の照崎は、高台の方にありました。

上野付近は、JR線境に崖のようになっているところが続いていますが、

下の方は古代は海、江戸になる頃は湿地だったのを、徳川家康が江戸の町に作ったのですね。

高台の方は武蔵野台地の端にある上野台地。

江戸時代は、上野の高台から、江戸の町がずっと見えていたのでしょうね。

小野篁の時代は、平安時代でその800年も前です。

縄文海進は有名ですが、なんと平安時代にも海進があったそうですから、

照崎の名のように、美しい海が広がる風光明媚な場所だったようです。

今の寛永寺のあたりということなので、

国立博物館や芸大のすぐ近くですね。

上野公園辺りも好きなので、けっこうカフェとか行くのですが、古来から良い場所だったようです(^^)

上野公園の噴水広場

びっくりですが、あの辺りは古墳群があったそうで、今でも文化会館の裏に「前方後円墳」が一基残っているそうなのですよ~花見の時に登ってたかも…

5世紀のものだから、その頃かなり力のある豪族があの辺りにいたってことですね~

そんな台地の上にあった小野照崎神社は、江戸幕府が寛永寺を建てるので入谷に移されてしまったのです。

江戸の鬼門を守る寛永寺。地形から行って重要な場所だったのでしょう。寛永寺は幕末には彰義隊が籠って、最後まで戦った場所ですから。

上野という地名が、実は篁公から来ているという説もあります。

上野国(今の群馬県)の国司として派遣された帰りに、立ち寄ったこの土地がたいそう気に入り、家を建ててしばらくいらした。

その間にいろいろ教示なさったのに恩を感じていた人々が、篁の死後、その場所に祀ったというのが、小野照崎神社の始まりと言われています。

この上野国から、地名が上野と呼ばれるようになったとの説です。

上野の謂れは他にもいろいろありますが、私がお茶してる辺りで、篁様もお茶してたりして♪なんて妄想したり(*´꒳`*)

平安時代の貴族といえば、京都で優雅に暮らしていたのかと思いますが、

随分遠くまで旅をしているのですよね。

小野篁が上野国の国司となって赴任する時、古代の道を通って行きました。

上野国へは東山道を行きます。

当時の道は、行政区ともなっています。

神坂峠の案内より

東山道の国は、

近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥・出羽

滋賀から、岐阜、長野、群馬、栃木そして東北へという感じですね。

このところ、北関東でも東山道が発掘され、平地では幅10メートルを超える道だったようです。すごいですね!

この道を使い、都へたくさんの物が届けられました。

東山道は、コリンの旅とも実は関係が深いのです。

近江は、小野氏の本拠地でもあります。

一方、東海道の主な国は、伊勢・尾張・相模・武蔵・上総・下総・常陸

都から伊勢、東海地方通って神奈川、東京(府中)、千葉、茨城までが東海道。そこからさらに東北へと向かったそうです。

これで行くと、篁さんは、帰りそのまま東山道を通らず、武蔵国の方へ来たようですね。

実は奈良時代の終わりの頃まで、武蔵国は東山道に属していました。

役人さんたちは、群馬まで来て、今度は武蔵国の国府のあった今の東京の府中まで来て、また栃木へ向かう(>_<)

というルートだったのです。大変!

なので、武蔵国が東海道になるのですが、元の大きな道が当時まだあったのです。

篁さん、今の上野の照崎から、どう都に戻ったのかな?

東海道にそのまま出るなら、府中の辺りには、小野牧があり、今の小野神社になっているのですが、当時はどうだったのかな?

東海道というと、武蔵国が通れない頃は、相模国から下総国へ船で渡るルートだったのです。

相模・武蔵・下総の陸路が主流になるのは後のことだったのですね。

そういえば、これを調べて、そうか!と思ったことがあります。

鎌倉の「鎌足稲荷」

ガーデンカフェに行くはずが、なぜか迷い込んだ…こんな所になんで?という場所なのですが、

その時の記事→→こちら

藤原鎌足は、藤原姓を臨終に際して賜るので、元は中臣鎌子という名前でした。

鎌子が生まれた時稲荷明神からお守りの鎌を授かりました。ずっと持っていたものを、乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺したあと、ここの地を訪れた時、埋めるようにとお告げがあったと。

八幡の方の場所とも浄妙寺のそばのこの場所とも言われますが、

鎌倉の地名の由来もここからという説もあります。

鎌倉は天然の良港だったそうで、飛鳥時代から奈良時代、中臣氏やのちの藤原氏が、ここから千葉方面、鹿島へ。

そこから東北経営にも乗り出して行ったのだろうと思います。

藤原鎌足の鎌が、鎌倉の鎌と言われるほど、古代東海道と中臣氏の関係が深かったのでしょう。

なるほど!です(≧∀≦)

そして、これも今回発見♪

鎌足稲荷の「鎌」「稲」はどちらも鉄に繋がります。鎌倉もかつては産鉄地、製鉄地だったそうなのです。

さて、この鎌倉と、信州の諏訪も関係が深いのです。

小野照崎神社のあった上野台地も、一万年前の旧石器時代から、人が住んでいたそうですが、

武蔵野台地では、3万年以上前から(すごい!)諏訪や八ヶ岳の黒曜石が使われています。

その頃の人たちは、伊豆諸島の神津島へも海を渡って黒曜石を取りに行っていったそうです。それもすごいですね!

身近な場所にも、たくさんの歴史が重なっています。

次回は、その3万年前の諏訪を感じる場所へビーナスの旅。

以前書いていて、なぜか完結できなかった物語。この時コリンと一緒だったのでした♪

とても私には大切な場所です…

今日も読んでいただき、ありがとうございました♡

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