「かむながら たまひちはいませ」

しほりです♪

【かむながら たまひちはいませ】

このところ、いろいろ調べているのですが、まるで分断するような出来事も増えてきて、
疲れてしまっていました。

その時、ラムーコさんの書かれた投稿拝見して、ハッとなったのです。

難しいところもありますが、読んでいくうちに、とても腑に落ちました。

ご本人にお願いして、全文引用させていただきますね。

なお、写真の絵は、この春にやまとことばの講座で書いた作品です。

神様のお名前とお祈りの言葉を、古代文字で、先生の作ってくださった下絵に書き入れたものです。

「かむながら たまひちはいませ」

少し読み方違いますが、この作品にも、ラムーコさんの文にも出てきます♪

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『物質性の究極の実態が、実は物質なんてモノは存在していない=量子
ってことなんですよ( ゚д゚)と言うお話し‼️』
(前回の現象と現実との差異の続き⁉️)

『量子』って聞くと、ごく小さい粒々で、どんなに小さくても丸い粒って考え方からは、他のイメージはなかなか抱かないかも知れませんね

しかし、量子と言うのは、そう言う粒々なのではなくて、創造性意識=世界を生み出せさる意思が,三次元に粒の如くに投影された、非物質、非実体、極小と思ったら逆の極大の何ものか・・が量子って、スピリチュアルな言い方ですが、粒々と言うよりはその様に言った方が良い存在なんですね。

こうなると、私達物質をベースにした存在の認識の仕方には、その姿を想像することすら困難でして・・

皆さんが量子の事を粒々だと思っていましたら、ごめんなさいそれは、田中くんの事を佐藤くんだと思ってるくらいに、違うんですよね〜
(何の例えなんだよそれ⁉️藍)

全然違う姿、違う名前(粒々)でそれを呼んで概念してしまっているんです。

そのことが理解されて来ますと、物質と言う存在への認識が、180度のひっくり返り「反転」を余儀なくされるんです。

実は、物質を調べ切る、知り切ると、物質なんて存在は世界の何処にも無かったんですね、とこう言うことが分かってくるんです。

多くの人々が、世界は「物質」だ、と疑いなく信じ込んでいる意識の状態とは、実は物質とは何か⁉️と言うことが、全然紐解けていない意識の状態だと言うことなんですね。

さて、その様にして、物質の正体を突き詰めるのには、物質に関心を寄せて、それを捕らわれて探求して、その実態を解明しよう、と言う意識の存在(物質を信じて疑わない意識の人々のこと)が必要であり、非物質性(神さま、神霊神仏など)へと関心が向いている意識には、そんな物質の探求は無理なわけです。

この世界に、無用なモノ、無駄な存在など、チリ一つとして無いんです。
ですから、確かに唯物的な機械論還元論の信奉者によって、世界は開発と言う名前の破壊をされ続けて、今のところ危機に陥っている現状は有るんですが、じゃあ、それは本来要らない存在だったのか?と言いますと、実はそうではないので、決してその存在を敵視したり、攻撃したりして、自分自身を闇属性に自ら陥らせる必要は無いと言うことで、今回はこんなややこしいことを綴っています

物質性のブレイクスルーでしか、物質と言う存在の実態、正体は明らかにならないのです。
物質に捕らわれ、探求し、突き詰める、そんな物質へのあくなき探求によってしか、世界は物質なんか何にも無かったんだ、と言う事を明らかにする術は持てないのですから。

そもそも、この世一切が、意識の影、投影したスクリーンであるのに、映画のスクリーンに向かって問題解決を意識すること言うのは、絵面にしてみると滑稽なコトでして、情報の本体であるフィルムの投影側の能動存在は見失われて、常に投じられた映像の「受動側の白いスクリーン」にしか注意が向いていない状態な訳です。

スクリーン側というのは、日本人が抱いて来た世界観である「常ならぬ(無常観)」とある様に、定まることなく流動していく、と言うのは映画を観てもテレビ、パソコンスマホの画面を観ても、直ぐに分かるコトなわけですが、仮にその画面の1シーンに対して受け入れ難くて、そのスクリーンに向かって映る像をペンキで書き換え始めたら、多くの観客は恐らく「気の狂った人が何かを始めた」と思って見るコトでしょう。

このシミュレーションを通して考察すれば、そりゃそうだなぁ樂となりますが、実態としては、私達は普段、この気が狂った構図を生きてしまっています
つまり、目の前の投影像の「現象」に向けて、それを自分の思い通りに、願望通りに変えようと、様々な手を打って行く訳です。

科学を使うか、財力を使うか、知力を使うか、それとも見えざる神仏の働きに頼るか、様々ですね。
それ自体が聖も邪も言うことは出来ませんが、全て着地点は「現実を変える」と言う認識の上に有りますので、世界が物質であると言う前提に基づいているわけですね。

現象を一切いじらないと言うこと、その様な考え方が何にも起きない、変えようとは微塵も思わないと言う、世界の実態である「現象」を理解して悟っている意識の人々には、科学も物質も見えざる存在への願いも、何も要らないので、坦々と人生を送るだけなんです。

でも、元々理解している人には不要ですが、概念としては神さまや神仏と言う考えが有るのにもかかわらず、目の前の世界、物質現実をなんとか思う通りに変えたい、思う通りに正したいと考えている意識の人々は、実は物質にたいしての認知を抱いている、「物質は有るんだと認識している「中途半端」な物質信仰の状態なんだ」と言うことを指摘せずにはいられません。

この世界が、物質ではなく、意識の投影した像であり、見た途端に終わって消えて行くのが現象なんだ、と完全に理解している意識には、宗教も科学も不要で在り、完全なる人間の人生をただ坦々と済ませて澄ませるだけ、と言うそれだけになるんです☺️

その意識に於いては、思うことが思う通りになっている、つまり逆説的ですが、「何も思わない」んですから、思い煩うことは一ミリも起きない訳なんです。
この自由自在の状態へと、私達人間の意識の在り方は誘われて人生を歩んでいます。

しかし、我々物質を信じている意識には、それが如何に幻想なのかを理解するのには、対極の姿勢で、物質に徹底的にこだわって、それを解明して分かるまで分析して、あれ、何にも無かったんだと悟る以外には存在世界に術はないんです。
中途半端からの脱出は、そう言う「極み」が要るんですね。

さて、それゆえに、物質を徹底的に探求する意識の存在が、真のアセンションへのもう一つの筋道でして、はなから完全なる宇宙、完全なる人間とその人生、と分かっている意識の対極ではあるが、それもまた宇宙が進化する為に全て必要な在り方であって、

問題は、その両方の意識の人々の

「中途半端さ」

が、これが全て『曖昧な創造をする』から分からなくなる、と言うことなんですね。

神さまに対しても中途半端、惟神に成れず
物質に対しても中途半端、物質を紐解けず・・

どのみち神の分け御霊の行方とは
神の自由自在なる創造性への原点回帰にある・・

訳なのですから、二極化の対立としてそれらを見ても意味は無くて

全ての存在には意味がある

と初めから完全性から生き始めることが、今の時局に必要とされているわけですね。

かんながら たまち ちはいませ

神の御心と共に在る己れである

『全託』

と言う在り方へ、今すぐに切り替えて
(頭側の都合は一旦死んで)魂側を生きることにズバッと切り替えてみてみること
すると人生はどうなるのか?と言うシミュレーション、これがまた円真遊戯と言う意識の遊び方と言う言い方にもなるんですよね

これは実験であり、遊びなんです。
人生を思い通りに改造すると言う取り組みなんでは無くて、全ての物質現象が手元から過ぎ去った後に、私達に唯一残される「コトワリへの紐解きの力=理解力」、これだけは魂に刻まれて、現象界だろうが,今は見えざる世界だろうが、私達が生きるどの様な世界でも、創造性、自由自在性の大いなる発露へと、活かされて行くことになるんですね〜☺️

義務でも強制でもなく、今までと違う自己にもなって遊んで確かめる(実験)だけなんです。

神から一番遠い意識とは

『頑なさ』

なのですから。

何故ならば、神様の実態とは自由自在なる創造性、そのものだからですね(╹◡╹)♡

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